天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

「死にたい」じゃなく「生きたくない」

以前、こんなツイートをしました。

 

これがあった夜、僕は友人二人と川の字になって布団で寝たのですが、真っ暗になった部屋で次のような話をしました。

 

友人1 「そういえば今日のアレ凄かったよね。あっ、死んだわ。って思ったもん。」

ぼく  「そーだね。完璧死んだと思った。」

友人1 「でもさ、ほんとうは俺らあのとき既に死んでて、今三人でいるのも幻かもよ。」

一同  「たしかに。そうかもしれないね。」

 

なんか小説に出てきそうな会話ですね。暗くて目を開けているか閉じているのかも分かんないなかで交わしたこの言葉は、その夜の不眠剤としては十分でした。

 

そして、この日をきっかけに僕はあらゆるものに価値を見出せなくなりました。死が想像以上にあっけないということを身をもって知り、ふとしたときに「どうせ死ぬんだもんなー。そしてそれは一瞬だしなー。」という諦めと、それを突き抜けた「死にたさと虚無」に陥ります。

哲学用語で「実存的ニヒリズム」と表現されるようで、最終的には死が待っているのだから人間存在は無意味である、というこの考え方は現代的なニヒリズムのようです。

 

何事にも情熱を注げず、時間だけが流れる中で、あのニュースがツイッターで流れてきます。

 

白血病の告白によって悟ったこと

 

これをきっかけに、なんて言ったら不快に思うかもしれません。ですが、これをきっかけに死に対する僕の考え方が少し変化したのです。なのでこれ抜きにはこの記事を書こうと思い至らなかったのです。

 

今月、某水泳選手が白血病を告白しました。数々の大会で好成績を収め、来年の東京オリンピックでも期待の星とされていた有名な方です。白血病は生存率が50%を切るような重い病で、この病名を聞いたとき死を連想する人が少なくないかと思います。この告白は一大ニュースとなり、ツイッターのトレンドやTL、ネットニュースはこれに関する声で埋め尽くされました。

 

僕自身もこの告白に相当衝撃を受けました。その日のツイートです。

 

僕はこれまで「死はあっけないものだ」と考えており、病気や老衰などといった「時間を要する死、立ち向かえる死」の可能性を無意識のうちに捨てていました。白血病はこれにあたります。一歩ずつ死が近づいてきます。

 

今までは「どうせ死ぬんだもんなー。」と考えていたのですが、この某水泳選手の告白を受けて死ぬのが怖くなりました。死にたくない、と思いました。それと同時にHSPの共感力の高さゆえに体がズシリと重くなりました。死の重みが僕を動けなくさせました。寝ることでしか体を軽くできませんでした。

 

つまり、「死にたい」と思っていたのは正しくは「生きたくない」だったのです。死のあっけなさを知っているから、生き辛さを抱えている人にとっては死ぬことが一番手っ取り早く楽になれるのです。HSP発達障害にとって生きることは努力です。多大なエネルギーの消耗とマイナスに振れる感受性、その他諸々のせいで生き辛さが伴います。そういう人にとって死ぬことは希望なんです。

 

ですが、時間を要する死や立ち向かえる死は、死ぬことに多大なエネルギーを使います。どうせ死ぬのに、死ぬことにまでエネルギーを使うのはなんだかおかしく思えます。

 

ここまで考えた末に、死ぬこと以外の選択肢も考えようとなりました。生きたくない、が本質にあるのなら、それを忘れればいいんじゃないか。生きたくなくなればいいんじゃないか、って。そこで、今のところの僕の案としては

 

・無我夢中になれるものを見つける

・強制的にルーティンをつくる

 

結局のところ、生きるっていうのは生きたくない、をいかに忘れられるかのゲームなんじゃないでしょうか。知りませんけど。

 

余談ですが、あれほど世間をざわつかせた白血病の告白も、二週間経った今ではツイッターで検索しても10ツイートぐらいしか出てきません。ほとんどの方は忘れてしまったのでしょうか。無常な世の中です。

 

またまた余談ですが、「死にたい」と言っている人に「死ねばいいじゃん」は最も言ってはならない言葉ですよ。本当に死んでしまったら、辛いのはその言葉をかけたアナタです。

 

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