天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

【バナナファーム】現在のタリーの仕事・求人状況について 

こんにちは。みさきです。

 

タリーに着いて、バナナファームの職に就いて、近頃ようやく地に足がついてきました。なので今回は2019年4月時点でのタリーの仕事・求人状況をまとめてみました。なお、本記事はタリーに住んで3週間の若造が主観と独断と偏見で書き上げたものなので「ほーーーん。」ぐらいで受け止めてもらいると幸いです。また、4月分だけでなく、来月以降もまとめていく予定なのでそちらも見て頂けると不幸中の幸いです。

 

Harvest Guideでは年中シーズンだけど....

 

オーストラリア政府が毎年、地域や作物ごとに各ファームのシーズンをまとめたHarvest Guideをご存知でしょうか。おそらくセカンドビザのためにファームへ行こうと考えているワーホリのかたは一度は目を通しているかと思います。白→グレー→黒と色が濃いほどワーカーを募集していて、ご覧の通りタリーは年中真っ黒です。

 

ただ、実際その通りかというとそんなことはなくて、気候やバナナの収穫量などによって仕事・求人状況は前後するんです。なので毎年毎月のように新しい情報を仕入れていかないと、いざタリーに着いたときに全く仕事にありつけない、なんてこともありえます。

 

これをふまえて現在の状況を説明しましょう。

 
 

女性よりも男性のほうが有利

 

 僕が働いているバナナファームは男性オンリーのところで、主な仕事内容はバナナの木の間引きやリーフカットなど、バナナの木さえあれば仕事が存在するのでバナナの収穫量に左右されません。そのため今のところは週5日しっかりと仕事があります。同様に、タリー最大のバナナファーム・マッカイでハンピングとして働いている男子勢も週5日働いているそうです(僕自身はマッカイではありません)。

 

これに対して女性の場合は少し休日が多くなっています。マッカイで働いている女性の知り合いは最近になって週4日の労働だそうです。おそらくバナナの収穫量に難があるのではないかと思われます。最近のタリーは毎日のように雨が降っているので、その影響でしょうか。また、マッカイ以外のファームについては、女性だと週3日しか働けていないケースもあり、これだと貯金することは難しいかもしれません。

 

仕事がないということは求人もしていないということです。男性だと「あそこのファームが空いているらしい」と耳にすることもありますが、女性だと一か月以上ジャンピングで仕事を探している人もいるみたいです。ジャンピングは通常1~3週間で見つかると言われているので、やはり女性は不利なのかもしれません。

 

また、今月のはじめはバナナバラックスが満室状態で、ウェイティングリストもだいぶ溜まっていたみたいです。ちなみに、インターネットで「ポーラがバナナバラックスを去った」という記事をいくつも見たのですが、戻ってきたのか、もともと去ってないのか、現在ポーラはバナナバラックスにいます。

 

マッカイで働くためにはファーム経験が必要かも

 

そこで働ければ安牌と言われているマッカイはネットからもアプライできるんですが、他のファームの経験がないと足切りされてしまうとマッカイ社員の方がおっしゃっていました。これはバナナファームでなくとも問題ないみたいです。

 

つまりマッカイの目に留まるには、タリーで一旦ジャンピングやバッパーの斡旋などを通してマッカイ以外のファームで働くか、タリーに来る前に他の地域でファームの経験を積んでおく必要があるのです。もちろんオンライン以外でもマッカイの仕事をもらえる可能性はあるのですが、その方法でもマッカイ以外のファームの経験は有利になってくるでしょう。

 

一応マッカイのURLを貼っておきますね。

http://www.mackays.com.au/contact

 

まとめ:男はいけそう、女はオススメはできない

 

以上をまとめると、仕事探しにおいて、男性は今から来てもそこまで難航せず、女性は場合によってはファームを拝めずにタリーを去る、ということもありそうです。

 

じゃあ、どうすればいいのかというと、僕の考えではタリーでのファーム探しに必要なのは下調べ・積極性・パイプを作ることです。これらがあれば同じ時期に来た人たちにアドバンテージをとれるでしょう。

 

タリーの仕事は時給制がほとんどだったり、一度ゲットすればクビになっても次のファームを紹介されやすいので、最初の仕事さえ見つかればこの町の見え方が変わってくると思います。それでは、よいファームライフを。

 

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海外が好きなの?旅が好きなの?

バナナの町からこんにちは。みさきです。

 

SNSをやってて思うんですけど、留学・ワーホリ界隈ってスマホをスワイプするたびに疲れちゃう気がします。はじめに誰かが「これはこうだ!」と自信たっぷりに言って、それに反応した誰かが「それは違う!」という具合にマウントを取っていく。叩き叩かれがそこかしこで起こってる印象です。もうちょっと適度な距離感でSNSを運用できないのかなあと思っちゃいます。

 

まあ、こうやって首を突っ込んだらやってること同じようなもんですけどね笑

傍から見てる風を気取ってマウント取ってきてるじゃん、って。

 

これに比べると旅界隈は穏やかでエネルギッシュです。たまーに大炎上しますけど、それ以外は尖った印象はありません。サークルみたいな雰囲気です。「旅してぇーーー」って呟けば2いいねぐらい貰える界隈ですから笑

 

そんな感じでTLをボーッと眺めていたら、はてなブログに書きたいはてなが浮かんできました。

 

あれ、海外と旅どっちが好きなんだろう、って。

 

かつては同じジャンルに括っていたけど、ワーホリにきて考えが変わりました。なんか違くない?だいぶ違くない?兄弟ってよりは遠い親戚じゃない?みたいな。

 

前置きが長くなりましたね。それではいってみましょーーー!

 

「海外」と「旅」の違いってなに?

 

 どっちが好き、ってのを考える前に、そもそも前提をしっかりしないといけません。なんでもそうですよね。今日の巨人-阪神はどっちが勝つんだろう、って予想するためにはその日のスタメンや控えをしっかりと抑えなくてはなりません。たぶん。

 

とはいえ、この二つを定義するのってなかなか難しいうえに、人によってがっつり変わっちゃいます。さらには、そもそも違いなんてなくない?って考えることもできちゃうと思うんです。なので以下に書き記すのは「定義」というよりもそれぞれの言葉の特徴や存在を"僕にとっての"視点からアナライズしたものです(アナライズというワード、久しぶりに使ったけどかっこいい)。

 

海外

 ・異文化に触れることができる

 ・日本が窮屈に感じている人にとっての救いの可能性

 ・SNSに投稿することで承認欲求を満たせる

 

 こんな感じですかねー。海外って行っちゃえば価値観変わる、みたいなところありますから。逃げであれ、攻めであれ、海外を経験するのって素晴らしいと思います。SNSもまあ、おまけ程度に考えてたらいいんじゃないのかなあ。

 

こうやって挙げてみると「海外」そのものは好きですね。

 

余談ですが、海の外、って書いて海外ということは、国境が陸続きの国の人にとって「海外=外国」ではないんでしょうかね。あ、どっちかといえば「外国=海外」か。それってちょっと面白くないですか?生まれた国によって意味合いが大きく変わりすぎぃ!

 

・その土地での受容を通して深く内省する

・人との出会い

・縛りが少ない

 

特に上二つですねー。こいつらの中毒性は半端ないっすねー。ドラッグやって捕まるなら旅でちゃいなYO!って酔っ払ったら言ってしまいそう。嘘です。それは盛りました。チキン野郎なんでそんなこと言いません。言えません。

 

とにかく、旅も好きなの!!!

 

「好き」×「仕事」は向いてなかった

 

ワーホリにきて思うことがあります。それは、仕事のことが頭の片隅にあると海外になんの魅力も感じなくなっちゃうこと。

 

ここでいう海外ってのは日本からみた海外、つまり外国のことです。つまーり、オーストラリアにいてもオーストラリアに魅了されない、みたいなニュアンス。慣れとかじゃくて、来た時からそうなんです。ずーっと観光に興味が湧かなくて。行きたいところなんてなかったし(強いて言えば田舎に行きたかった)ましてやラウンドなんて!

 

(* ̄- ̄)ふ~ん って感じ。

 

ああ日本が恋しい。ああインドに行きたい。ああアメリカ横断したい。

 

海外な好きなはずなのに、ただただ仕事のせいでメンタルがやられて一日が終わる・・・

 

かりゆし58「もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい 親友と語り合ったかい 燃えるような恋をしたかい 一生忘れないような 出来事に出会えたかい かけがえのない時間を胸に刻み込んだかい」

ワイ「うるせえぞ。なにひとつできてねえぞ。」

 

たぶん、マルチタスクになってるんだと思います。「好き」×「仕事」のマルチタスクに。どっちも中途半端になっちゃって自滅するんです、きっと。

 

旅が好き >>> 海外が好き

 

これは内緒の話で、あなたにしか教えないんですけど、僕が本当に好きな旅っていうのは、「海外」×「旅」なんです。つまるところ、旅っていうのは「好き」×「好き」なんです。それはずるいって言うのはナシですよ。なにせ秘密の話なんですから誰にも言ってはいけないんです←←←

 

まあ、冗談はさておき、僕の場合は「仕事」の概念を好きなことに持ち込んではいけなかったんです。マルチタスクができないから。それが社会に出る前に分かっただけでも休学してワーホリにきた甲斐があるというもんです。

 

まとめると、「海外」も「旅」もどっちも好きなんだけど、「旅」のほうが格段に好きだよねって話。旅してるときは夢中になれるけど、海外(ワーホリ)は他のことがよぎっちゃうもの。あ、ちなみにその二つじゃ期間も環境も違いすぎてそもそも比べらんなくね?ってのもナシです。あと文字数に対して内容が薄いってのもナシです。そんなこと言われなくても分かってるし、一通り自己嫌悪になり終わってますんで!

 

まあ、メルボルンで働いた結果このような気付きができたのは良かったけど、バナナファームではこの考えが変わってくれることを少し期待しています。なんだか寂しいもん。欲張りかなあ。

 

はやく旅してえ。。。。。。

 

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都市移動をしたらブログを書けなくなった

世の中はエネルギーの循環によって成り立っていると思う。

 

愛や親切、狂気や感動。こういうのがヒトからヒトへ、モノからヒトへ、ヒトからモノへとぐるぐる回ってる。

 

僕たちが何かしようとするとき、そのエネルギーは他の誰かから与えられたものであり、そのエネルギーの強さはその人と私の思い入れの強さや年齢、関係性に依存する。

 

例えば「善意」を誰かに与えたとする。エネルギーを回してる、つまり自分がしてもらったら人にするのは当たり前、と思っている人が回した「善意」は「親切」になる。逆に、何か見返りを求めてしまう人が回した「善意」は「偽善」になる。

 

集合体の流れに身を預ける、これがさらりとできる人は優しく、清く、真っ白に生きられるのかもしれない。

 

 

 

最近、沢木耕太郎の『旅する力』を読んだ。沢木耕太郎といえば、何年もの間バックパッカーのバイブルになっている『深夜特急』の著者であり、その主人公である。彼は『旅する力』のなかで、『深夜特急』の旅に出た動機の一つについて次のように触れている。

 

私は、大学の教師から何らかの「熱」を浴びたかったのだと思う。その「熱」に感応して、自分も何かをしたかったのだと思う。

 

僕にとっての「海外へ旅する」熱の発端は二年前に訪れたオーストラリア・ケアンズである。突然自由と責任を突き付けられた大学生が陥りがちな憂鬱と不安から逃げるように南半球に降り立った僕は、豊かな自然や美しい異文化、腹を割った会話などを通して受け取った熱で何かしたいと思うようになった。海外で受け取ったものだから外へ外へと向けたのだと思う。

 

それからというもの、何か国か旅してきてついには休学してワーホリを選んだのち、今こうして原点の地でブログを書いている。なんだか可笑しくてクスッとしてしまう。

 

ここに来る前、つまりメルボルンにいたときのエネルギー源は読書だった。図書館に行って面白そうな本を2、3冊借りて家に帰り、あとはひたすら没頭する。そのまま読み終わるか集中が切れるかすれば、チャージ完了であり、何かせずにはいられなくなる。とはいえ既に海外にいたので、ブログを書くことで消化していた。我ながら良いサイクルを見つけたと思う。

 

ただ、それも出来なくなってしまった。山々に囲まれたバナナの町・タリーには日本の本などあるはずもない。ブログを書く手が進まない。さあ、どうやって熱を手に入れようか、サイクルを見つけようか、というのが当面の課題なのである。

 

1.バナナファームの仕事に早いとこつく

 

タリーという町にくるワーホリ勢のほとんどはバナナファームで働こうとする人だ。むろん僕もその一人であり、早く仕事をゲットできないかな、とやることだけやった後はひたすらに暇を潰している。そこで考えたのが、そもそもバナナの町で生活を送ることが、ある一定の人たちにとって需要があるんじゃないだろうか、ということ。いや、あるに違いない。事実、僕もここに来るまでブログを漁っていたわけだし。つまり、ここで送る一日一日が何かしらの、とりわけブログを書くことへの熱になり得るのだ。

 

2.人と出会う

 

沢木耕太郎が大学の教師から熱を受けたように、誰かから熱を受ける。ワーホリで出会う人は休学前に比べて、良い意味でも悪い意味でもぶっとんでいる。思いがけない角度からシュートが飛んできて動揺することも少なくない。ただ、メルボルンは都会だったので人付き合いが希薄だったし、ギラついた人が多かったので避けてさえいた。しかし、タリーは着いて四日目にしてメルボルンとは違うと感じる。温暖でねばりつくような気候が、寛容でゆとりのある人間性をつくり出している。肩の荷が下り、閉塞感がなくなり、笑顔と口数が増える。

 

ここならきっと...。

 

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3月分 メモ

メルボルン生活は最後の最後にゼロになりました。ゼロになれました。都市移動によって物理的に心機一転できるという未来が、身に付けた全てを捨てることを助けてくれました。もちろん、捨てたものの中には寂しさも、憎しみも、自己嫌悪も、恐怖もありました。気づかせてくれた周りの人に感謝を伝えたいです。ありがとうございます。
 
自己嫌悪
 
はじめからやり直そう。なにもかも。少し怖いけど、全部捨てて、やり直そう。
 
 
自分のことがバカバカしくなった。
ネタでツイッタラーとか言ってたのに、いつ間にかツイッターに左右されかけてるじゃん。バカだな僕は。
 
物語
 
僕の口で直接言おうとするからだめ、ということもあるかもしれない。物語にしちゃえばいいのかもしれない。
 
言葉遣い
 
たしかに、誰かに語りかけるような口調はよくないな。それって相手の人生に干渉してるよな。やめようと思う。僕はクソだ。死ねばいい。
 
~だと思う、という文末でいったほうがいいのかもしれない。気付かないうちに、嫌いなタイプの人間になっているのかもしれない。ありがとう。
 
本とセックス
 
セックスのあとに本を読むんじゃなくて、本を読んだあとにセックスをするほうがよくないか?
 
『プレゼント』
 
わたしを死にたくさせたもの マルチで裏切る男の子 わたしを死にたくさせたもの 口だけ一途な女の子 わたしを死にたくさせたもの 世の中が顔で決まること わたしを死にたくさせたもの マウント大好きSNS
わたしを死にたくさせたもの 嫉妬と憎悪とニヒリズム わたしを死にたくさせたもの クズほど異性にモテること わたしを死にたくさせたもの 思ってたよりも多いバカ わたしを死にたくさせたもの 私とあなたとあなた達  
 
傲慢
 
主人公が悲劇的な運命を辿る映画を見たり、家族や恋人が次々と死ぬ本を読んだときに、僕は最愛の人の温もりを欲するようになる。むろん、肌に触れることはできないのだから、それは電話越しに感じる息遣いだったり、手紙越しに受け取るたった一人のためを想った筆圧だったりするのだが、そういった「生」に触れないと、もうすぐ精神的か、肉体的かで死んでしまうような気がするのだ。
 
両親
 
この先のことを考えたら、両親と向き合わねばならない。
 
小説
 
もしも、ほんとうにもしも、擬似的に神になれるとすれば、それは小説を書けばいいんじゃないか?登場人物に命を与え、自由に動かせる。不都合があれば取り除くことができる。いまここに生きる私の人生は物語であり、そこには一種の諦めと、絶望すらあるのだが、可能性を見出すのならば、それは私自身が物語を編み出すことで、擬似的に超越できるのではないか?
 
 
いつでも死ねるというのは、いつまでも生きられるということじゃないか?
 
国民軍と傭兵の違い
 
このように、国民軍の軍人は元来無報酬(義勇兵。現在でいうボランティア)であり、純粋な職業としてではなく、共同体に属する者としての義務を果たしているという性質上から、給与が支払われていてもこれを傭兵とは呼ぶことはない。
上記のように、国民軍を編成する方法以外に、もう一つ長期戦を戦う方法がある。それが傭兵である。国民軍が、一定の市民的義務を負う者によって編成されるのに対して、傭兵はこの様な義務を負わない、主として報酬を目的とする者であるという違いがあるのである。
沢木耕太郎おもしれーわ。普段より速いペースで、かつ情景を脳内で細かく思い浮かべながら読める。それでいて学びも多い。
 
精神科
 
帰国したら精神科いこう。病的に病んでる。
 
タバコ
 
火をつけて最初の煙を吸い込んだ瞬間、思考がガラリと変わる。肺が重くなるのに身を預け、思考も悲観的なほうへ。夜ならそのまま溶け込んでしまえるけど、朝昼のこれは僕にとってマイナスだ。タバコ減らそうかな。
 
 
僕の21年間は一冊の本にできるけど、一曲にするには抑揚がなさすぎるな
 
 
もう一生来ないだろうなと思った場所へ来月から行くんだぜ。楽しみに決まってる。
 
笑顔
 
こっちの人、笑顔で話しかけたらパァって笑顔になるから嬉しい!好き!
 
 
メルボルンいやだ。寂しい。
 
ぷろたん
 
Xperia XZ3おすすめ。写真めっちゃ綺麗に撮れる。
 
と思ったら案件だった。
 
 
急に意識がとんでしまうようになる夢。普通に過ごしてると、一瞬だけ(ほんの2,3秒かな)意識がとび、そのときの記憶がなくなる。夢の中の僕はバイト中で、意識がとんだあとには鉛のような身体の重さと割れて粉々になった皿があった。おそらく失った記憶のなかで皿を割ったのだろう。バイトの人に言っても信じてもらえず、理不尽に怒られた。理解を示してくれたお客さんに「記憶障害?」って聞かれた。寄り添ってくれたお客さんのおかげで助かった。
 
2つのバイト
 
片方は鬱っぽくなるほど行きたくなくて、もう片方は早起きが少し辛いぐらいで苦じゃない。相対的なもんかな?
 
バ先のオーナー
 
バイトで愛想を良くするのは、得られる情報の質を落とさないため。態度が悪いと簡略化して情報を提供してしまう。
 
世の中は情報交換なのか?
 
ex.)客の態度が悪いと「今日のおすすめ」を言いたくなくなるじゃん?同様に、店員の態度が悪いと、どうなるんだ?リピーターになりづらいは違う気がするしなあ。もっと詳しく聞けばよかったなあ。筋が通ってない気がする。
 
ミツバチ
 
道端の小さな花壇でミツバチが花粉を運んでる。花達はこの狭い世界で命を紡いでいき、ミツバチは空に飛び立つ。彼らは幸せそうだ。
 
読書
 
思えばここまで何か嫌なことがあったときは本の中に逃げていたな
 
帰国後
 
新居、バスルームがカーテンじゃなくてガラスで仕切られてるなら、ユニットバスでもいいかもなあ。そして湯船もいらなくて、シャワーだけでもいいかもなあ。
 
Yさん
 
金融や公務員もいいけど、最近はメーカーがアツいらしい。
 
休学が就活に不利に働かないよ、というかそもそも就活を焦らなくていい。もっと遊んでいいんじゃない?俺の周りには学歴で劣ってる転職組がいっぱいいる。転職なんて楽勝だ。
 
メーカー入って駐在になれば海外にいける。
 
試合が中止になり、バッセンにいくとマイケル中村の父がいた
「原監督はとんでもねえ。うちの息子はあいつに殺された。原は全く起用しない。そのくせ1度俺を放出してくれと直訴しなのにダメだった。他の球団に行って欲しくないからだ。あいつはきたねえ。その点高橋由伸は素晴らしい。あいつはいいやつだ。しかし、球団が黒すぎて高橋由伸を受け付けなかった。だから原が戻ってきた。」
 
 
 

ひとに面白がられるには「アクション」ではなく「リアクション」だ

最近、沢木耕太郎の『旅する力』という本を読んだ。これは同著『深夜特急』の外伝的なもので、深夜特急の旅に出たいきさつや後日談、彼にとっての旅とは一体何か、などが書かれている。なかなか面白く、学びも多かったのだが、その中でもある一文が僕の心を揺さぶった。

 

  重要なのはアクションではなくリアクションではないか。どんなに珍しい旅をしようと、その珍しさに頼っているような紀行文はあまり面白くない。たとえ、どんなにささやかな旅であっても、その人が訪れた土地やそこに住む人との関わりをどのように受け止めたか、反応したかがこまやかに書かれているものは面白い。

 

世界一周中の様子を写真つきでSNSにアップするひとたち、特に「キラキラバックパッカー」などと揶揄されるひとたちに何も感じないのはこのせいだと思った。キレイな風景や旅仲間との写真、どこに行ったかを書き連ねるだけでは人の心は動かしにくいのだ。

 

例えば、アクションだけが書かれたツイートでいいねを貰うには、南極を冒険したり、キルギス遊牧民になったりと、相当ぶっとんだ内容でなければならない。しかし、道端のたんぽぽを観察したり、昼下がりにコーヒーを淹れるだけでも、リアクションが面白かったらいいねを獲得できるのだ。

 

その土地で何をして、今の自分がどう感じたか。一つ一つの受容をじっくりと内省したうえで、これらをアウトプットする。そういったものが面白がられるのだ。

 

窓の外を見たり、なにかほかのものを見るとき、自分がなにを見てるか分かるかい?自分自身を見てるんだ。ものごとが、美しいとか、ロマンチックだとか、印象的とかに見えるのは、自分自身の中に、美しさや、ロマンスや、感激があるときにかぎるのだ。目で見てるのは、じつは自分の頭の中を見ているんだよ。

 

広く深い内省、即ちリアクションに繋げるために、僕は本を読みたい。

つねづね、人というものは本能・経験・育った環境・遺伝子の四要素で決まると思う。なかでも経験・育った環境は、先人達が紡いできた歴史なしでは語れない。それは例えば、日本人という視点から僕を語ろうとしたとき、鎖国第二次世界大戦、もっと遡れば室町文化や国風文化の知識が必要になってくるのと同じように、どこかを旅しようと思ったら、旅先での受容と内省を豊かなものにするために、その国の地理歴史に関する本を読んでおきたいのだ。そして、このことが帰国したあと旅について誰かに話したとき面白がってもらえる要因になるなら一石二鳥であろう。

 

沢木耕太郎は『深夜特急』の旅を26歳で終えた。僕は以前より、彼と同じような年齢、同じようなルートで旅をして、「新・深夜特急」のようなものをインターネットかなにかに書きたいと思っている。しかし、こんなことは誰もが思いつき、既に何人もやっているだろう。個性を出し、人に面白がられ、僕自身も面白がるにはリアクションなのだ。一つとして同じ旅はないが、面白い旅のため、豊かなリアクションのため、僕はまず本を読み漁りたい。

 

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無料のランチを食べられる店には「恐怖」が渦巻いていた

貧乏飯、といえば何を思い浮かべるだろうか?
 
大学生をしていた頃の僕にとってそれは納豆ごはんだったし、高校生にとってのそれはサイゼリヤのミラノ風ドリアかもしれない。社会人にとっては自家製のサンドウィッチかもしれないし、中学生にとってのそれはコンビニで買ったホームランバーかもしれない。
 
日本とワーホリでは貯金の難易度が違った。シフトは思うように入れてもらえないし、家賃がかかる。半年前まで親の仕送りと奨学金に助けてもらっていた身としては、こっちに来てからというもの何から何まで一人で遣り繰りするようになったので、ようやく一人立ちしたようにも思う。
 
貯金をするために僕は、日本でやっていたように食費を削ることにした。それが一番簡単で手っ取り早く、かつ効率的だと思ったからだ。じっさい、ふにゃふにゃのホットドッグとゴムみたいなパスタだけで飢えをしのぐようになってから目に見えて口座の残高は増えていったのだが、始めて一か月足らずで友人から「あれ、最近痩せた?」と 言われてしまった。どうやら以前に比べて二重瞼がくっきりとなり、輪郭もシャープになったらしい。
 
やれやれ、光あって影がある、というのは一つくらい例外があってもいいものなのに。両親の遺伝のせいか、痩せやすいうえに食べても食べても太らない体にはさんざん悩まされてきた。憎んだときもあった。高校時代はウエイトトレーニングがただのトレーニングだったし、大学時代は白米を一日五合食べていたので食費を削ったところで意味がなかった。さもないと痩せてしまうのだから、仕方ないじゃないか。
 
そうか、痩せてしまったか。食生活の偏りのせいかお通じも悪化していた僕は良い機会だと思い、以前インターネットで見つけて気になっていたカフェを訪れることにした。NPOにより経営されているこの店は、なんでも毎日無料で日替わりのランチが食べられるらしい。ここなら栄養がきちんと摂れるしだろうし、何よりお金がかからない。都市移動を再来週に控え、仕事を全て辞めていて時間がたっぷりとあるので、この時点で僕は毎日通うことを決心していた。
 

 
 翌日、職がないニートらしく昼前に目覚めた僕は、久しぶりにワクワクしていた。たぶん、根拠もなしに、メルボルンの憎たらしさを打ち消す何かがそこにあるんじゃないかと期待していたのだと思う。街の雑踏が遠くに感じられた。
 

 

 その店はシティ内の裏路地にあるのだが、一歩その通りに足を踏み入れると空気が重たくなった。あちらこちらで清潔感のない男女が煙草を吸っていた。僕は怖かった。たぶん、事前にインターネットで口コミを見たせいだ。ホームレスが多いとか、メルボルンの闇を覗けるとか、そういうのに囚われていたのだろう。

 

ゆとりをもってテーブルとイスが並んだ店内は、これまた清潔感のない人でごった返していた。これまでメルボルンで行ったどのカフェやレストランよりもうるさかった。「品がない」とはこういう状態のことを言うのだろう。小学生の給食なら微笑ましいのだが、いかんせん年上の、それも外国人にされるとたまったもんじゃない。ずっと怖かった。

 

空いている席に座り、改めて周りを見回すと、客はオージーばかりだが働いているのはアジア人ばかりだった。おそらくボランティアだろうに、なぜ彼女達はここで働くことを選択したのだろう。英語力を身につけたいが、普通の仕事が見つからなかったからだろうか。うまい賄いがでるからだろうか。ボランティアというものに何かしらの思い入れがあるのだろうか。

 

近くにいた韓国人っぽい、整った顔立ちの女店員を呼んだ。アジア人の客が珍しいのか、僕が日本人だとわかると彼女は、一瞬驚いた後に顔を綻ばせた。注文のシステムは事前に調べていたので、なんなく日替わりランチを注文できた。

  

 

 吉野家の牛丼なみに素早く運ばれてきた日替わりランチの内容は、写真の右からスープ・メイン・デザート。無料という言葉に踊らされてハードルを低くしていたせいか、僕がバカ舌のせいかわからなかったが、ミネストローネは美味かった。何一つ具が入っていなかったが、とろんとしたスープの舌触りと多少かったるく鼻を突き抜けたトマトの香りだけで十分に味わうことができた。

 

メインの皿に乗っていたのはグリンピースとソーセージ、ポテトサラダで、全体的に味が薄かった。この店のキッチン担当はミネストローネに力を入れすぎじゃないか、と思うほど味がしなかった。食感と素材の味しか感じられず、苦し紛れにミネストローネで流し込んだ。

 

はじめ唐揚げだと思っていたそれはデザートだった。口に入れるとぐにゃりとして、予想に反した味と食感だったため少し吐きそうになった。食において、悪い方向に期待を裏切られるのは初めてだった。フルグラをぐちゃぐちゃして練り固めたような料理だった。牛乳に浸って、柔らかくなる前にシリアルを食べる派の僕としては最悪だった。見た目も悪いしね。デザートというのはコース料理の中で一番見た目が大切で、期待に沿った味と食感であるべきなのかもしれない、と思った。

 

 
食後にはカプチーノがでてきた。セブンで買うのと同じ容器に入った、同じ味のものだった。見慣れたものが意外な場所とタイミングででてきて、不思議と落ち着いた。それにしても、どうしてセブンのコーヒーが無料で飲めるのだろう。そしてそれを知る人が少ないのはなぜだろう。客がホームレスチックなオージーばかりなので、誰も近づこうとしないからか。この店自体が「世界一住みやすい街」メルボルンにとって知られたくないもので、なんらかの圧力がかかっていて拡散されにくいからか。だとしたらなぜセブンはそんな店に協力しているのだろう。社会貢献か?イメージアップか?
 
答えが出ないまま、店をあとにした。 
 
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はじめからおわりまで、ずっと怖かった。たぶん、口コミを事前に見たことが、現場の雰囲気に飲み込まれるのに拍車をかけたのだろう。口コミが僕にとってプラスに働いたことはないが、いくらでもマイナスを増大させ得るのだと知った。それと、メルボルンに来てからはじめて「面白い」と思った。街で見かけるホームレス達は、こういうところで生かされているのだ。同時に、それならば金を乞われたところで与える義理も人情もないな、と思った。ホームレスと同じところでご飯を食べる僕が、どうして彼らに金を渡さないといけないのだ。
 
とにかく、そこには「世界一住みやすい街」というイメージとは真逆の重々しさがあった。
 
 
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カンボジアの事件について、犯人と同じ日本人として思うこと。

こんにちは。みさきです。

 

最近、僕のTLを騒がせるような大きい事件がありました。そこで考えたことを綴ります。

 

その事件とは、カンボジアで日本人男性二人が現地のタクシー運転手を強盗殺人したというもの。多額の借金を抱えていた二人は奪ったタクシーで両替所を襲うつもりだったが、意図せず抵抗してきた運転手を殺害してしまったと述べています。

 

この事件を目にしたとき、最初は同じ日本人が海外で、それも新日の国カンボジアで殺人を犯したことに悲しくなり、怒りが湧きました。同時に、カンボジアにおける日本人の立ち位置も悪くなるかもしれないと思いました。

 

これが主観的考察です。ただ、海外に携わっている人が多い僕のTLでもこの事件について何かしらの感想・意見を述べたツイートで溢れ、それらを見ているうちに客観的に考察できるようになってきました。

 

TLで多かったツイートを挙げてみると

 

・胸が痛い

・日本人の印象が悪くなった

・日本代表の自覚を忘れるな

・パスポートが弱くなる

 

こうやって見ると、なんか違和感ありませんか?腑に落ちなくないですか?

 

紐解いていくうえで大切なキーワードは「特別視・度外視・重要視」の三つです。

 

まずは「特別視」

そもそもこの事件が特別視されすぎ感があります。事件を起こしたのが日本人で、僕らもまた日本人だからでしょうか。仮に今回の事件の犯人が中国人やメキシコ人だった場合、こんなに騒がしくなったでしょうか?僕には到底思えません。せいぜい「カンボジアで殺人事件があったらしいよ」「へえ。そうなんだ。」ぐらいのやりとりで終わる気がします。

 

つぎに「度外視」

みんな犯人と自分のことばかり気にして、被害者や遺族を度外視している感があります。日本で起きる事件なら、もっと被害者の方にも考えが及びますよね?倫理観が違うとかじゃないんですけど、僕ら日本人にとってこの事件の犯人が日本人であることは被害者の気持ちを考えない理由になるんでしょうか。

 

そして「重要視」

つまり、重要視されてるのが「 誰が殺したか > 誰が殺されたか 」の構図になってるんですよね。良い悪いの話がしたいんじゃありません。異国で日本人が大きな罪を犯したことは、こういう思考をもたらしたということです。実際僕もそうでしたし。

 

まとめていきましょう。

殺人事件に限らず、世界中で犯罪は毎日のように起こっています。周知の通り、その中でも日本人によるものは圧倒的に少ないです。ゆえに、日本人以外の人からしたら今回の事件は「たまたま日本人によるものだった」程度で終わるでしょう。日本人とカンボジア人以外ではそもそも興味を持たれることがないかもしれません。

 

海外にいる日本人にとって、他の日本人は最大の仲間であり最大の敵です。それは話す言語や治安の良さも含め、僕らが日本人だからです。少し前に、無謀な条件でアメリカ横断を試みた日本人中学生や不法入国をした世界一周中の日本人高校生が話題になったことがありました。そのときの僕の考えは「どうせ人は死ぬんだし、後に続く日本人への影響なんて考えなくていいじゃん。自己満でいいじゃん。」だったのですが、今回の件で変わりました。

 

これって時間を縦に見てるんですよね。そうじゃなくて、時間を横に見る。横にいる誰かがミスをすれば、その瞬間「日本人」である僕は何かしらの被害を受ける。逆に僕がミスをすれば、横にいる「日本人」に被害を与える。

 

旅は自由になれると言いますが、日本という国を横一線で背負っている以上、それはルールに則った自由でなければなりません。相互的に影響を及ぼすからです。尾崎豊のように、このルールから、この支配から卒業することはできないのです。自由になればなるほど、横に並ぶ人数は大きくなり、背負うものも大きくなります。そういう意味で自由とは責任なのです。

 

 

こういったところでしょうか。今回の痛ましい事件は、主観的・客観的に良い気付きをさせていただきました。最後に、被害者の方に哀悼の意を表して終わりと致します。

 

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