天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

都市移動をしたらブログを書けなくなった

世の中はエネルギーの循環によって成り立っていると思う。

 

愛や親切、狂気や感動。こういうのがヒトからヒトへ、モノからヒトへ、ヒトからモノへとぐるぐる回ってる。

 

僕たちが何かしようとするとき、そのエネルギーは他の誰かから与えられたものであり、そのエネルギーの強さはその人と私の思い入れの強さや年齢、関係性に依存する。

 

例えば「善意」を誰かに与えたとする。エネルギーを回してる、つまり自分がしてもらったら人にするのは当たり前、と思っている人が回した「善意」は「親切」になる。逆に、何か見返りを求めてしまう人が回した「善意」は「偽善」になる。

 

集合体の流れに身を預ける、これがさらりとできる人は優しく、清く、真っ白に生きられるのかもしれない。

 

 

 

最近、沢木耕太郎の『旅する力』を読んだ。沢木耕太郎といえば、何年もの間バックパッカーのバイブルになっている『深夜特急』の著者であり、その主人公である。彼は『旅する力』のなかで、『深夜特急』の旅に出た動機の一つについて次のように触れている。

 

私は、大学の教師から何らかの「熱」を浴びたかったのだと思う。その「熱」に感応して、自分も何かをしたかったのだと思う。

 

僕にとっての「海外へ旅する」熱の発端は二年前に訪れたオーストラリア・ケアンズである。突然自由と責任を突き付けられた大学生が陥りがちな憂鬱と不安から逃げるように南半球に降り立った僕は、豊かな自然や美しい異文化、腹を割った会話などを通して受け取った熱で何かしたいと思うようになった。海外で受け取ったものだから外へ外へと向けたのだと思う。

 

それからというもの、何か国か旅してきてついには休学してワーホリを選んだのち、今こうして原点の地でブログを書いている。なんだか可笑しくてクスッとしてしまう。

 

ここに来る前、つまりメルボルンにいたときのエネルギー源は読書だった。図書館に行って面白そうな本を2、3冊借りて家に帰り、あとはひたすら没頭する。そのまま読み終わるか集中が切れるかすれば、チャージ完了であり、何かせずにはいられなくなる。とはいえ既に海外にいたので、ブログを書くことで消化していた。我ながら良いサイクルを見つけたと思う。

 

ただ、それも出来なくなってしまった。山々に囲まれたバナナの町・タリーには日本の本などあるはずもない。ブログを書く手が進まない。さあ、どうやって熱を手に入れようか、サイクルを見つけようか、というのが当面の課題なのである。

 

1.バナナファームの仕事に早いとこつく

 

タリーという町にくるワーホリ勢のほとんどはバナナファームで働こうとする人だ。むろん僕もその一人であり、早く仕事をゲットできないかな、とやることだけやった後はひたすらに暇を潰している。そこで考えたのが、そもそもバナナの町で生活を送ることが、ある一定の人たちにとって需要があるんじゃないだろうか、ということ。いや、あるに違いない。事実、僕もここに来るまでブログを漁っていたわけだし。つまり、ここで送る一日一日が何かしらの、とりわけブログを書くことへの熱になり得るのだ。

 

2.人と出会う

 

沢木耕太郎が大学の教師から熱を受けたように、誰かから熱を受ける。ワーホリで出会う人は休学前に比べて、良い意味でも悪い意味でもぶっとんでいる。思いがけない角度からシュートが飛んできて動揺することも少なくない。ただ、メルボルンは都会だったので人付き合いが希薄だったし、ギラついた人が多かったので避けてさえいた。しかし、タリーは着いて四日目にしてメルボルンとは違うと感じる。温暖でねばりつくような気候が、寛容でゆとりのある人間性をつくり出している。肩の荷が下り、閉塞感がなくなり、笑顔と口数が増える。

 

ここならきっと...。

 

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