天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

期待して生きていい。

最近Twitterをしていてよく見るのが「他人に期待しない」というフレーズです。多くの人は自己中心的な考えのもと「あいつに裏切られた」と被害者面するようなことが続いた結果、楽に生きれるようにとこのフレーズを自分自身に言い聞かせるように吐いている印象を受けます。何事も一万回続けると習慣化する、なんて言いますが思考も例外ではありません。僕自身も後天的に思考を変化させてきました。「他人に期待しない」ことは努力次第で限りなく100%に近づけると思いますが、本当にそれでいいのでしょうか?はじめに言っておきますが、僕の考えとしては「一定のラインを超えた人間関係を持つ人に対しては大いに期待していい」なのです。それでは掘り下げていきませう。

 

信用と期待

 

 まずはじめに「期待」について整理しておきましょう。期待とよくセットで使われる言葉が「信用」です。信用するけど期待しない、友達や恋人に対してこんな考えを持っている人が多いような気がします。実際、僕が今回のテーマを考え始めたのも、この考えに触れたからでした。この二つの言葉、逆説の接続助詞で結ばれているのがしっくりこなかったんですね。感性的な問題なんですが、『「けど」を使うべきじゃなくない?そもそも信用って何?期待って何?』とこんがらがってしまいました。

 

辞書でそれぞれの意味を調べてみると、

 

信用: 確かなものと信じて受け入れること。(出典 デジタル大辞泉

期待:あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。(出典 デジタル大辞泉

 

ここからも分かるように、明確な違いって信用や期待をされる側が「口に出すか出さないか」なんですよね。口に出したら信用、口に出さなかったら期待、という具合です。ルールに例えてみると分かりやすいと思います。信用は「約束」で、期待は「不文律」になります。そして、約束を破った側は噓つきと言われ、不文律にそぐわないことをすれば裏切り者となります。そこまで仲良くない人との時って、軽い内容でも口に出して確認しますよね?よく知らない人は裏切られる可能性が高いので、保険をかける意味でも「信用」のほうをとるのです。

これによって、逆説の接続助詞「けど」にしっくりこなかったのは「信用と期待」という1セットがすでに逆説の意味を持っているからということがお分かりいただけたでしょうか?頭痛が痛い・音速のソニックと同じニュアンスです。僕としては「信用し期待しない」のほうがまだ理解し易かったでしょう。

  

期待する=括る 

 

 最初のほうに、他人に期待しないということを100%に近づける、と表現しました。そうです、他人に期待しないなんて僕からしたら絶対的に無理です。というのも他人に期待するというその行為こそが、我々が楽に生きるための手助けになっているように感ぜられるからなんです。

 

期待の意味をおさらいしましょう。期待とは「あてにして心待ちにすること」です。ではなぜ期待できるのでしょうか。なぜあてにできるのでしょうか。それは期待する=他人を括るという行為だからであり、それが「一人一人が掛け替えのない存在である」という矛盾した前提の上で成り立つ虚飾だからです。

 

僕たちが「この人は頑固だ」「今夜語り合うこの人との時間はきっと良いものだろう」と他人を括るのって、目の前の人との会話と今までの自分の経験で得たものを照らし合わせて、ですよね。生物の進化や進歩と一緒です。楽をしたいんです。だってそうでしょう?他人を括らずに、最初から最後までを近道することなく知ろうとしたら膨大な時間とエネルギーを要します。疲れるんです。そして面白いことに、我々は経験を積むほど人を括れるようになる、即ち楽できるようになります。期待って本来楽なもので、本能的なものだと思うんです。楽をするために、疲労を回避するために、個人レベルで進化をしているのです。

  

譲れない「括り」があること

 

とはいえ、他人を括るのが早すぎる、即ち期待するのが時期尚早だと、その期待が外れ裏切られたと感じ、落ち込んでしまう可能性が高くなります。なので僕の考えは「友達未満の関係の人をなるべく括らないようにする」です。要するに心を許した相手にしか期待しない、ということなんですが、このために僕は友達作りにおいて「ここの括りに入らない人とは友達になれそうにない」という、自分にとっての譲れない括りを持っています。その括りというのが「ノリが合う」「おもしーかおもしくないか」の二つなので、どちらも当てはまれば友達、どちらかでも欠いていたら友達になれない、という感じです。なんだか人間味がないと思われたかた、僕もそう思います。けれど、いいんです。この括りに当てはまるような人にだけ人間味を感じさせられれば僕は満足なのです。実際、こういう考えをとってから多少生きるのが楽になりました。

 

(余談ですが、今回の記事、論理が崩壊している気がしてなりませんね。言いたいことを詰め込んだら筋が通らなくなるのって、僕という人間が矛盾に溢れているからなのでしょうね。ヒトは、一途で、筋を通し、それがずっと変わらないような人に惹かれる傾向があるように感じますが、それってきっとないものねだりなんでしょう。人間って皆「理性と本能」っていう矛盾のバランスをうまくとって生きているんです。どこかで矛盾のない存在に憧れているのでしょう。)

  

「裏切り」のダイナミズムは美しい

 

「人生山あり谷あり」「捨てる神あれば拾う神あり」のように、人間って個人レベルでも種全体でも均衡を保ちたがる生き物です。ラッキーでもない限り、ローリスクならローリターン、ハイリスクならハイリターンです。つまり、期待が大きいほど裏切られたときのショックが大きいのです。永遠を誓った恋人や一番の味方であるはずの家族など、裏切られた相手によっては何十年も立ち上がれません。それを想っても尚、その美しさ故に「友達以上の相手には期待して良い」と思います。

 

それがどれほど先であれ、思い出は美化されるのです。だから貴方はひどい裏切りに遭ったら、思い切りその感情に溺れて良い。もがき苦しんで良い。無論、大きなショックを受けた時にこういうことを考えられる余裕がないのは百も承知です。それを分かっててなおこれを言うのは、マイナスの感情に支配された人というのは美しくて惹かれるからです。重く、冷たい感情に一途であることは人の美意識に働きかけ、注意を向けさせるのに十分なのです。

 

 いかがでしたでしょうか。他人に期待しない、なんて皆が考えたら世の中つまらなくなるな、と思います。自分の中で予めラインを決めておけば存分に期待していいんじゃないでしょうか。人間として生まれたいじょう、人間味を失わずに生きていきましょうよ。

 

  ↓Twitter