天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

僕にとっての孤独とその向き合い方

僕はよく友人と互いの好きな音楽を薦め合い、それを聴いて感想を述べたり意見を交換したりするのだが、最近そのなかで「孤独」について考える機会があった。孤独を感じるのはどんなときか、を言い合ったのだが僕はここ数年は孤独になっていない、それから逃げるように拠り所をいくつも用意している、と言った。確かにこの時点で僕はこう思っていたのだが、つい先日ふとしたときに孤独を感じていることに気が付いた。一度気が付いてみると過去の同じようなケースが次々と蘇り、ああこれは少し整理しなければならないなと感じたので時間を設けて自分にとっての孤独と向き合い、現時点での「孤独の解消のアルゴリズム」をまとめてみたので以下に記す。

 

さて、僕が孤独を感じるとき、それは大人数で会話をしているときだ。会話の内容や一緒にいる人との間柄とは関係なく、人数が増えるほどに会話のテンポについていけなくなり、ここに自分はいらないのではないかと考えてしまう。即ち自分の存在価値が分からなくなり、世の中に否定されたような感覚を覚える。これは一人でいるときに感じる「寂しさ」とは別のものであり、一度この感覚に至ってしまうともう会話に入っていけなくなってしまう。この考えは僕が人見知りやコミュニケーション障害、いわゆるコミュ障であることの言い訳でしかないのではないか、とも考えたのだが、それで割り切って終わらせてしまうのはつまらないのでここでは無視したいと思う。

 

ここまでで僕にとって孤独を感じることは自己肯定感の低下に繋がることが分かった。これが自分にどう影響を及ぼすかというと、世の中に否定されたと感じたことで世の中はクソだ、と激しい憎悪を抱く。果てはそれも精神的に辛くなってしまい、「万物は虚構である。意味など全て後付けでありそもそも存在しない。」と世界が色を失った有象無象のように感じる。この考えによって自分の拠り所を否定してしまうので、自分で自分の首を絞めていることになる。思うに自己肯定感の低下にはそれが失われたことへの辛さもあるのではなかろうか。現代人からスマートフォンやインターネットを取り上げたらやっていけなくなるように。

 

それではどうすれば僕は自己肯定感を再び高める、即ち孤独の辛さを解消できるのか。蛇足かもしれないが前提として「そもそも大人数を避ける」というのは今回のテーマに合わないので無視する。

一つ目は、孤独の共感である。前回の記事で述べたように共感は僕にとって承認欲求を満たしてくれる。SNSで孤独を表明し、いいねや何かしらのコメントを貰うことで僕の辛さは多少紛れる。これはRADWINPSの「だいだらぼっち」という曲の最初の歌詞と感覚がぴったりなので、この歌詞そのものにも共感をもてる。

 

       一人ぼっちは寂しいけれど みんな一人ぼっちなら 

       寂しくなんかない 一人ぼっちなんかじゃないから

 

二つ目の解消法は、なるべく少人数で、自分の存在を自然と肯定してくれる人と会話をすることである。僕にとってこれは恋人だったり、気の知れた友人だったり、はたまた旅先で出会った人だったりする。互いに考えをぶつけることで自然と孤独は感じられなくなっていく。

 

以上が僕にとっての孤独とその向き合い方だ。まだまだ未熟な考えであるが、一度ここで整理できたことは自分を理解することにも繋がったので満足している。最後に蛇足だが、僕はこういう考えを持っているので、大人数の飲み会で耐えきれず抜け出し離れたところで一人煙草を吸うような人に惹かれる。自分にとっての逃げが誰かにとっての関心かもしれないのだ。