天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

日記としてワーホリを綴ろうと思う<ブログの方向性>

勢いに任せて開設したこのブログもわずか二投稿でほったらかしになっていた。二本目を投稿してから二か月間も経ってしまった。僕自身は相当な飽き性だと自負しているが、三日坊主にすらなれないとは情けない。三日で坊主なら二日で筆を止めた僕はどうすればよいのだろう。頭をバリカンで五厘に刈ったあと、カミソリでバッテンでも入れてやろうか。いや、それだと少し面白くなってしまうな。ついでに眉毛も全部抜いてやろう。とことんまで懲らしめてやりたい。

 

 

三年夏で大学を休学し、ここオーストラリアにワーホリにきて早二か月が過ぎ去った。そうか、環境が変わったから筆を止め、ある程度落ち着いてきて余裕ができたからブログのことを思い出したのか。ならば自分を懲らしめる必要はないな。むしろ必然だ。そう、落ち着いてきたおかげで改めてワーホリについて考えた結果、何か新しいルーティンが欲しいと思うようになった。そこで僕はルーティンの一つとしてブログを週二本投稿することに決めたのだ。そしてその二本というのが、「ワーホリを日記として綴る」「考え事をエッセイとして綴る」の二種類だ。後者に関しては以前投稿したものと同様の形式をとり、前者はよりフラットにワーホリ生活のありのままを綴っていきたい。そして以下にどうしてこのように決めたのかを書き連ねる。

 

 

①日記代わりになる

 

僕は小三~大二まで十二年間程野球をやっていた。部活ではよくあることだが、「野球ノート」としてその日の練習内容や反省点、改善したい所などを毎日のように書いていた時期があったのだが、僕はそれに付随してその日あったことを一言で書き残していた。たまに実家に帰省するとそのノートを読み返し追憶に浸るのだが、あれはいいものだ。同じことが書いてあるなんて一度たりともないので、掛け替えのない日を繰り返してきて、今日もまた掛け替えのない日なのだと実感できるし、忘れていたものを思い出すことで戻れない過去を色付けて、豊かにすることができる。ただ、いかんせん僕は飽き性だし、何かを始めるというのは得てしてエネルギーを使うので日記を書こう書こうと思いながらも億劫になっていた。そこでブログという形で再開し、ルーティン化すると初めから決めることで半ば強制的に書かせることにした。

 

②日記とエッセイの相乗効果

 

どうせ日記としてブログを書くなら以前までのエッセイも同時に書いてやろう。そこでそれぞれの特徴を考えたのだが、どうもこれは互いに影響を与えそうだぞ、と気付いてしまった。それも良い意味で、だ。これはやるしかだろう。ぽっと出の考えが確立された瞬間だった。エッセイを書くことは、とてもエネルギーを使う。悩み苦しみ、胸を掻き毟りながら言語化するからだ。これは日記とは違う質の語彙力を必要とされるため、その思考こそが日記での表現力において幅を広げるのに繋がるのではないかと考えた。また、日記を続けるということは今以上に瞬間瞬間で思考力を深める必要がないため、気疲れしにくくなるのではないか、と考えた。目の前の出来事を受容だけしておき、あとから捨象すればよいので感覚的に生きられるのではないか。もし本当にその瞬間に深く考えたくなったら緩くメモするなりツイートして残しておき、それをエッセイに持ち込めばよい。

 

③長く話す力が欲しい

 

去年の年の瀬から「2019年やりたいことリスト」を作り始めたのだが、その中の一つに「長く話す力をつける」というのがある。僕は相当な聞き手で、話し手になることが全くと言っていいほどない。昔植え付けられたトラウマのせいで自分が話すことを躊躇っているのだ。積極的に話しかけることをしないのでワーホリに来ても英語力が伸びないし、何かしらのエピソードを振られてもアップダウンも作らず、すぐにオチまで持って行ってしまうので、エピソードを使って人を惹きつけることができない(余談だが、エピソードが多い人というのは心理学的に幸福度が高いそうだ)。もちろんこの一年間で長く話す機会を増やす予定だが、ブログを通してのアウトプットも補助輪の役目を果たしてくれるのではないかと考えている。ブログの場合は視覚だけで惹きつけなければならないからハードルは上がるのだろうか。我ながら健闘を祈る。

 

④誰かの助けになりたい

 

ワーホリに来る前からずっとブログに助けられている。何かを知ろうとするのはいつだって素人だ。はじめの一歩はとても勇気がいる。海外なんて一生縁のないまま生を終える人もたくさんいる。ならば、少しでも興味を持った人の背中を押せるような存在になりたい。言ってしまえば自己満だ。ただ、僕も色んな人に背中を押されたのだ。無償で与えられたものを無償で渡すのだ。世の中はエネルギーの循環で成り立っている。そのエネルギーこそが愛なのだ。見返りを求めるなんて傲慢だろう。そこで僕は自分のために「働いたことのないワーホリ中の大学生」の視点から発信し、誰かの助けになりたい。

 

⑤共感を求めて

 

これは一本目の記事で書いた通りだ。自己肯定感を高めるためだが、あのときほど共感に飢えていない。だが、いつか飢えた時、ブログは助けになるだろう。

 

 

以上で全てだ。ちなみにこの記事はエッセイとしてカウントし、今週中にワーホリ日記を一記事挙げる予定だ。ワーホリ日記は本当にフラットに、こんなに堅苦しくなく喜怒哀楽を過剰に表現しながら綴っていく。乞うご期待。