天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

はじめに

ここ何年かで僕が承認欲求を満たされたと感じる瞬間が多いのは「共感」が介在するときだ。自分の考えを口に出したとき他者から得られる共感、逆に相手が提示してきた考えが自分のものと同じだったときに得られる共感。または本の一節や歌詞のワンフレーズに僕一人でこうじゃないかな、と思っていたものと似ているものが出てきたときに得られる共感。はたまた抽象的な考えをツイッター投稿にしたら、いいねされたときに得られる共感。

「十人十色」という言葉の通り、赤とピンク・緑と黄緑といった似た色を持つ人は星の数ほどいるだろうがドッペルゲンガーでもない限りその色が全く一緒になることはない。ただ僕にとって「共感」は似た色を見つけるというよりも違う色を重ねるようなニュアンスを含んでいる。重ねる、といっても二つの色が混ざるのではなく、各々が崩れることのないまま接触するものである。いわば高校生が勉強のときに使う赤シートの上に青シートを被せるようなものだ。僕にとってそれは喜びであり、安心であり、期待であり、何よりも僕が僕であるための証明のようなものである。

ブログを開設しようと思ったのはノリと勢いでしかないし、これといって何を書きたい、というものもない。ただ自分の考えている事を綴って、誰かに届けばいい。僕が知らない誰かが、ふとしたときにこのブログに出会って、肯定なり否定なり共感なりしてくれればいい。ただ、肯定も否定も共感も僕の考えを理解したうえでされるものなので、その人と色が全く違っていたら、白と黒だったら、それは無視あるいは無関心となって終わるだろう。色が重なるためには出会うだけではだめなのだ。