天然水の水割り

共感と批判と肯定と否定と受容を求めて綴ります。

カンボジアの事件について、犯人と同じ日本人として思うこと。

こんにちは。みさきです。

 

最近、僕のTLを騒がせるような大きい事件がありました。そこで考えたことを綴ります。

 

その事件とは、カンボジアで日本人男性二人が現地のタクシー運転手を強盗殺人したというもの。多額の借金を抱えていた二人は奪ったタクシーで両替所を襲うつもりだったが、意図せず抵抗してきた運転手を殺害してしまったと述べています。

 

この事件を目にしたとき、最初は同じ日本人が海外で、それも新日の国カンボジアで殺人を犯したことに悲しくなり、怒りが湧きました。同時に、カンボジアにおける日本人の立ち位置も悪くなるかもしれないと思いました。

 

これが主観的考察です。ただ、海外に携わっている人が多い僕のTLでもこの事件について何かしらの感想・意見を述べたツイートで溢れ、それらを見ているうちに客観的に考察できるようになってきました。

 

TLで多かったツイートを挙げてみると

 

・胸が痛い

・日本人の印象が悪くなった

・日本代表の自覚を忘れるな

・パスポートが弱くなる

 

こうやって見ると、なんか違和感ありませんか?腑に落ちなくないですか?

 

紐解いていくうえで大切なキーワードは「特別視・度外視・重要視」の三つです。

 

まずは「特別視」

そもそもこの事件が特別視されすぎ感があります。事件を起こしたのが日本人で、僕らもまた日本人だからでしょうか。仮に今回の事件の犯人が中国人やメキシコ人だった場合、こんなに騒がしくなったでしょうか?僕には到底思えません。せいぜい「カンボジアで殺人事件があったらしいよ」「へえ。そうなんだ。」ぐらいのやりとりで終わる気がします。

 

つぎに「度外視」

みんな犯人と自分のことばかり気にして、被害者や遺族を度外視している感があります。日本で起きる事件なら、もっと被害者の方にも考えが及びますよね?倫理観が違うとかじゃないんですけど、僕ら日本人にとってこの事件の犯人が日本人であることは被害者の気持ちを考えない理由になるんでしょうか。

 

そして「重要視」

つまり、重要視されてるのが「 誰が殺したか > 誰が殺されたか 」の構図になってるんですよね。良い悪いの話がしたいんじゃありません。異国で日本人が大きな罪を犯したことは、こういう思考をもたらしたということです。実際僕もそうでしたし。

 

まとめていきましょう。

殺人事件に限らず、世界中で犯罪は毎日のように起こっています。周知の通り、その中でも日本人によるものは圧倒的に少ないです。ゆえに、日本人以外の人からしたら今回の事件は「たまたま日本人によるものだった」程度で終わるでしょう。日本人とカンボジア人以外ではそもそも興味を持たれることがないかもしれません。

 

海外にいる日本人にとって、他の日本人は最大の仲間であり最大の敵です。それは話す言語や治安の良さも含め、僕らが日本人だからです。少し前に、無謀な条件でアメリカ横断を試みた日本人中学生や不法入国をした世界一周中の日本人高校生が話題になったことがありました。そのときの僕の考えは「どうせ人は死ぬんだし、後に続く日本人への影響なんて考えなくていいじゃん。自己満でいいじゃん。」だったのですが、今回の件で変わりました。

 

これって時間を縦に見てるんですよね。そうじゃなくて、時間を横に見る。横にいる誰かがミスをすれば、その瞬間「日本人」である僕は何かしらの被害を受ける。逆に僕がミスをすれば、横にいる「日本人」に被害を与える。

 

旅は自由になれると言いますが、日本という国を横一線で背負っている以上、それはルールに則った自由でなければなりません。相互的に影響を及ぼすからです。尾崎豊のように、このルールから、この支配から卒業することはできないのです。自由になればなるほど、横に並ぶ人数は大きくなり、背負うものも大きくなります。そういう意味で自由とは責任なのです。

 

 

こういったところでしょうか。今回の痛ましい事件は、主観的・客観的に良い気付きをさせていただきました。最後に、被害者の方に哀悼の意を表して終わりと致します。

 

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